親日家が多い台湾。
去年大流行したタピオカミルクティー発祥の地の台湾。
その台湾を統治した初のアジア人が、なんと「日中ハーフ」だったってこと、知ってましたか?
日本は戦乱の世も終わり、徳川幕府が統治する平和な江戸時代、台湾は明鄭時代を迎えていました。
明鄭時代
明鄭時期とは、台湾が鄭氏三代に渡って統治された1662年から1683年を指します。
この時代は、鄭成功が台南は安平に政権を建てた事からはじまり、その後本家の鄭經と、 鄭克塽によって統治されました。
本来であれば、鄭經亡き後、本家であり彼の長男である鄭克臧が後を継いでいたのではないかと思われますが、鄭克塽の娘婿の馮錫范が人を雇い、鄭克臧を暗殺し、鄭克塽をその座に据えたといわれています。
鄭[zhèng]氏
初代 | 鄭成功 | てい せいこう/Zhèng Chéng gōng | 台湾を統治した初のアジア人 |
---|---|---|---|
第二代 | 鄭經 | てい けい/Zhèng Jīng | 鄭成功の長男 |
鄭克臧 | 鄭經の長男(暗殺される) | ||
第三代 | 鄭克塽 | てい こくそう/Zhèng Kè Shuǎng | 鄭成功の五男の乳母だった女性との子供 |
台湾開国の王は日中ハーフだった
明鄭時代は、鄭成功 を無くして語れません。
鄭成功 (てい せいこう)1624年8月27日-1662年6月23日は、日本の九州は長崎県平戶市出身といわれています。
父親は明朝廷末期に海賊として中国の福建省を支配し、東洋貿易を行った鄭芝龍氏です。
鄭成功の母親が、日本人の田川氏で、鄭成功は六歳の時に故郷の閩南に戻った後、朝廷に仕える者を教育する学校で学ぶため、南京に送り出されています。
台湾の開国の王の別名
鄭成功の本来の名は森で、字には明儼や大木があります。
そして幼名は、日本人らしく福松といいました。
福建省の人が明朝廷を統治した、南明と呼ばれた時代、鄭成功は、福建省出身の第二代皇帝紹宗より、皇帝と同じ朱という姓と、成功という名を賜っています。
鄭成功にあやかった地名
鄭成功 は他にも、南明の最後の皇帝昭宗永曆より「延平王」という称号を賜うなど、たくさんの呼び名を賜っています。
特筆すべきは、台湾へ行くと、成功や延平と名の付く地域や道がある事です。
これは、鄭成功にあやかったものだと推測できます。
鄭成功の人生
1645年、清朝廷の軍は江南省(現在の上海市)に攻め入ります。
その時、鄭成功の父、南明の鄭芝龍は清に降伏しました。
しかし、母の田川氏は自害してしまいます。
鄭成功は、明に復権させるため、南明後期の主要な軍事力の一つであった、父の旧部隊と宗族(一族)を率い、清朝廷に抗戦するため、中国南東沿岸へ向かう事にします。
彼は、沿岸地域の税金と東洋貿易ルートを頼りに、当時極東地域との貿易で発展したオランダ商人とも交流を行い、部隊を維持しました。
1657年、鄭成功率いる軍は北伐を行い、遂に南京まで進みます。
ですが最終的には清に大敗し、鄭氏率いる集団は、アモイと金門まで退きました。
清朝廷は彼の貿易経済、食糧物資を断つため、明に対し鎖国を行いました。
オランダ人から台湾を奪還し英雄となるまで
時は1659年、このような絶望的な状況下、彼はオランダの通事(オサ)である何斌 (hé bīn)から、アドバイスを得る事が出来ました。
何斌は、鄭成功に「オランダ人が統治する台湾は物資が豊富で、それを打ち破れば、彼の軍隊を飢えさせることはない」とした上で、
台南県境內にあるオランダ東インド会社に進軍し、追いやり、食糧問題を解決する事と、清王朝の反対勢力として基地を建てる提案をしました。
鄭成功はそれを受けて、商船とオランダ人との貿易を即座に禁止しました。
1661年、鄭成功は2万5千人の軍を率い、金門周辺の海峡から台湾海峡へと渡り、またそれと前後して軍団を率い、台南の赤崁楼(せきかんろう:別名、紅毛楼 )と安平古堡(あんぴん こほう)を攻撃しました。
その翌年、オランダの部隊が戦いに敗れた為、鄭成功は台湾西南の角地に基地を建て、明鄭政權を興しました。
鄭成功のその後
鄭成功はルソン島の攻略も計画していましたが、台湾に攻め入った後、ほどなく病死したため、その計画は中断されました。
鄭成功がこの世を去った後、台湾のあちこちには、彼の廟が建てられ、祭られています。
当記事参考資料
「”鄭成功”」『維基百科,自由的百科全書』
“最終日付(2020年2月3日 (星期一) 13:24。)” UTC
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F